結婚おめでとう!


(彼女と知り合って、早いもので既に丸2年が過ぎ去っていた。あっという間に経過した時間は其れだけ沢田が年を取った証拠──ではなくて、愛しい相手と過ごす日々が今まで以上に充実していたからだと信じたいところ。一般人である彼女と、とあるファミリーのトップに位置する沢田の立場の違いは移ろい行く日々の中で共に過ごすことの出来る時間を普通の恋人たちよりも削っていくものだけれど、其れでも可能な限り顔合わせたい、同じ時間を、空間を、気持ちを共有したいと、ただただ其の思いを胸に抱いて仕事へ打ち込むものだから、少なくとも以前にも増した充実感を沢田が感じていることは間違うことのない真実なのだ。せめて彼女が成人してから─誰に言うでもなく1人心に決めた結婚の時期を実行に移すべく待ちに待った2年間。其れでも短いと感じるのは、恐らく世間に結婚を知らしめる披露宴だ何だを行わずに過ごす其の期間とて彼女と2人で過ごせるという事実に間違いはないから。世間一般にジューンブライドと呼ばれる紫陽花の季節を少し過ぎ去った7月の半ば。彼女の 誕生日にと決めた其の日は例年よりも少しばかり早く梅雨が明けて、目に眩しい夏の日差しが緑の木々を煌かせる心地良い1日となった。控え室の窓からそっと窓の外見遣れば、沢田の色素薄い栗色の髪が、纏ったパールベージュのロングタキシードが、照らしつける太陽の光を柔く反射させて瞬いた。数トーン落としたブラウンのベスト、最後のボタン1つ留めたのならばゆっくりと窓から視線外して壁に掛けられた時計へ。時間には少しばかり早過ぎるような気もするけれど、準備は既に終えてしまったし、ウェディングドレス纏う彼女の姿も早く見たい。楽しみで楽しみで、遠足を目前にした子供のように弾む心はたった数分でさえもやけに長く感じさせて──まだ彼女は準備終えていないかもしれぬと理性働かせて何とか其の場に留ったところでそわそわとする身体抑えようもなく、終ぞ10分程しか待たぬ内に結局はもう1つの─花嫁の控え室へと足を向けるのだ。1歩1歩、廊下を打つ白の革靴が鳴らす音はやけに遠くに小さく聞こえて、その代わりにとくとくと脈打つ己の心音はやけに近くに 大きく聞こえる。楽しみも喜びも、其れに幾分かの緊張交えた胸の内は今は一切の不安をも宿さない。時間を共にする内に堪えようもなく膨れ上がって溢れるばかりの想いはただただ幸せな時間を流して──一方的な片思いから始まった同棲が両思いへと変わって、其れが今日からは更に世間にも認められる家族になることが出来るというのに何を憂うことがあると言うのか。微かにずれて響く足音と心音のハーモニーはこの2年間を脳裏に描いて1人歩むだけと言うに些か怪しげに頬緩む沢田の耳に心地良く響いて、心を落ち着けていく。緊張だなんて柄でもない─なんて、言える筈もなし。寧ろ其の2文字が似合いすぎてしまうのが沢田であって、殊にパーティで彼女と出会って以来其の付き合いは安心も喜びも温もりも、様々な感情を共にしながらも慣れない"女性とのお付き合い"にある種緊張の連続でしかないなんて─男として些か情けなくもあるけれど、其れでも彼女とならば其の緊張感も快い。拉致事件だ何だと紆余曲折を経て、尚己を必要としてくれる彼女だから──安心して過ごせもす るし、彼女の新たな一面を垣間見る度にどきどきと胸が高鳴りもする。落ち着いていて、其れでいて新鮮で、幾度見てもいつ見ても飽くことのない彼女の明るい笑顔に何度も何度も励まされて、─彼女に出会えた誇らしさと彼女と結ばれる喜びを胸に抱いて、扉の前で足を止めた。自らの控え室へと入る前に場所教えられた其の扉、即座に脳に焼き付けた記憶と目の前の其れは全く違うところなくて、扉ノックしようと伸ばした手は、改めて感ずる緊張感に扉に触れる寸前で止められる。このドアの向こう側にはきっとまだ自分の見たことのない衣服に包まれた彼女が居て、そんな彼女は恐らくまだ自分の知らない顔をしているのではないかと─想像が迸る。彼女の可愛らしさはこの2年間で充分に見てきたつもりであるけれど、さて、今日の彼女は如何に。一度落ち着いた心拍数は再び其の音を早めて胸を打ち、誰も通ることのない廊下で1人百面相繰り広げていた沢田の表情は緊張と興奮と期待と─入り乱れて何とも言えぬ情けなさを映し出すばかり。其の気持ち落ち着けるように、掲げた手をベス トと同色のタイの上へと置けば瞳伏せて深呼吸を一度──。意を決してもう一度前へと伸ばした手は、今度こそ先ほどのように躊躇うことはなく其の戸を2度、軽く打った。中から許可の返答得られれば後はドアノブに手を掛けて扉開くのみ。──室内へと投げた視線が可愛らしさよりも美しさの勝るであろう彼女の姿を捉えて、緩く浮かべた笑みを驚きへと変化させて言葉を失うことになるのはもう少しばかり先のお話である。) (晴天――雲一つない青空はまるで愛しい人のようだ。まだ実感が湧かないのだが、今日はとても大事な日らしい。“らしい”と曖昧な表現をしてしまうのも実感が湧いていない証拠。そんな大事な日に今は母の手に寄ってメイクをされている。化粧品は全て今や日本No.1といわれても過言ではない程大きくなった母の会社のものばかり。―「出来た、」慣れた手付きで大人しくメイクを受けていればそんな言葉が耳に届いた。ゆっくりと瞼を開けば鏡に映るのは普段とは違う自分の顔。素人目で見てもそれは良く出来たメイクだと思える。丁寧に施されたメイクは流石だ。「有難う、母さん」素直に礼をいったのに母は何故かため息をついた。メイクをしたてで余り動かしたくない顔を少しだけ向ければ「昔からそうやって素直に化粧すれば良かったのに、」と母はいう。若い内に沢山お洒落をして友達と遊んで恋をしなさい、そう教え続けていたのは母。今は学生時代母の言う通りにすれば良かったかもしれないと思うけれどあの頃は反発したい気持ちでいっぱいだったのだ。―そういえば、彼と 出会ったのもあの頃だった。マフィアに一目惚れされ、3ヶ月ゲームをしたことを思い出す。2年前に比べたら、少しは大人になれたであろうか―?少しだけでも大人になれていたらいいな。―母は他に用事があるということで部屋から出て行くのを視線だけで見送る。それからはひたすら静寂。スピーカーから穏やかな曲が流れてきたり、廊下を歩く足音や人の話し声が聞こえてきたりしているのだが佐々宮には無音に思えた。けれど心地が悪いわけではない、ふわふわとした不思議な気持ちが溢れる。現実味がないというのだろうか。―あ、もしかしてこれがマリッジブルーなのかもしれないなんて。勿論彼が好きだから婚約を取り消すなんてことはしないが。―さて、そろそろだろうか。態々席を外してくれた母に苦笑とお節介に感謝。第一声はどうしよう?元気におちゃらけてみるのもいいかもしれない、隠れて驚かしてみようか、でもやっぱり一番気になることを聞いてみよう。やがて聞こえてくるであろうノックの音に体をドアへ向けて―長い髪は緩く巻いてハーフアップ、淡い水色のリ ボンは派手過ぎず地味過ぎず。ピュアホワイトのプリンセスラインのドレスはふわふわと可愛らしく物語に出て来るお姫様が着ているもののように思えて何だか気恥ずかしい。自分が着ることになるとは思わなかったドレス。この姿を見て彼はどういってくれるだろうか。きっとこれからは忘れられない素敵な日になるだろう、そしてこれから新しい日々が始まるのだ。―でもその前に、)――…似合う、かな?(開かれた扉の向こうにいるであろう彼に問い掛けよう。今日は特別な日、愛しい人と永遠を誓う――結婚式。)