結婚おめでとう!


(Buon matrimonio !!――まさか自分がこんな祝いの言葉をかけられるなんて思ってもみなかった、と上司たちから自分に宛てられた皮肉やからかいの気持ちしか込められていない悪趣味なメッセージカードを握りつぶしながらため息をついた。結婚式なんてがらじゃないし、そんな華やかな世界とは当に縁を切っているものだと思っていた。誰かに恨まれることはあっても、祝われる日が来るなんて、微塵も思わなかった。彼女と出会って世界が変わった、なんて台詞染みたことを思う日がくるなんて、それこそ微塵も思っていなかった。けれどそんな予想もしなかった日々が訪れたのは全て彼女に出会ったことが原因であることはまず間違いないだろう。一目ぼれした女の子を無理やり婚約者にするなんてどうかしてる、と今でも思うが、そのまま本当に結婚してしまう方がどうかしてる、といつの日か口走れば叱責を受けたのは言うまでもない。結局、本当にどうかしているのは自分自身なのだと、鏡の前でタキシードに身を包んだ自身を見てそう思う。そんな自分を選んでくれた人がいるということだけでも彼にとっては恐ろしいほどの奇跡なのに、その人が自分の最愛の人であるという奇跡に最早感謝してしまうほどだ。もっとも、神様のような類は全く信仰していないから、この場合感謝するのは彼女と、自分の運にのみ感謝することになるだろう。ひとまず今日の式当日と、ハネムーンに出かける1週間を過ぎれば再び仕事の日々が戻ってくる。簡単に足を洗えるほどあの世界は甘くないし、自分自身今更まっとうに生きていけるとも思えなかった。それが理由で彼女が辛い目に、危ない目に合うことだって目に見えている。現に一度、その危険にさらしたことだってある。それでもこの世界にいると決めた以上、彼女を愛すると誓った以上、自分にはなすべきことがあるのだ――さて、そろそろ時間だ。と、どこか遠くへトリップしていた思考が現実へと引き戻される。マフィアと一般人の結婚だなんて、これから一体全体どうなるのか、彼自身予想もできないが、ただ一つだけわかるのは自分にとっては幸せな日々になることはまず間違いないだろうということ。彼女にとってもそうであるように尽くすしかないというのがなんとも情けないところだけれど――トントン、と部屋を出てすぐのところにある彼女の部屋をノックする。彼女が今、どんな格好をしているのかは実は打ち合わせ済みなのであるから知っているのだけれど、本番を迎えれば話はまた別。中の返答を待って、扉を開けよう。第一声はきっと「馬子にも衣装ですねぇ」なんてひねくれた言葉だけれど、それを口にする彼の表情は今までにないほど柔らかく緩んでいることだろう。) (控え室の椅子に腰を下ろした佐枝の身体は所謂Aラインの真っ白なデコルテドレスに包まれる。白い無地のサテンは立ち上がった状態で床に触れるか触れないか─ぎりぎりを掠める辺りでふわりと広がったパニエの裾が揺れて、ウエストは全体と同じ白のリボンで引き締められるあまり派手さのないウェディングドレス。其の上には透明と淡いピンクのビーズが所々に煌く花の刺繍入れられたレースのボレロを羽織って曝け出された首筋から肩、腕のラインを覆う。パーティだ何だと、幾ら嫌だと拒否してみたところで出席を強要される過去を持てば大抵のドレスは既に経験済みだけれど、ウェディングとなれば勿論話は別。試着だサイズ合わせだと幾度も幾度も着せ替え人形にされたところで式の当日は矢張り特別な気分にさせられるもので、何処となくざわめく心の内にあぁ自分もちゃんと女の子だったのだと──改めて実感させられるような気分にさえなるのだ。元より華やいだイベント好むでもない佐枝は結婚式とて今までと同様そんなにも特別な拘りがあるわけでもなかったけれど、幾月 か前から始まった打ち合わせが次第に形を成して現実味を帯びていく様を自らの目で認めていれば次第気分も盛り上げられる。あまり着飾らなくて良いと、シンプルなものを目指して選んだドレスとてそんな何処か浮ついた気分の中なれば佐枝とて充分にお姫様気分の今である。幾ら年月経とうとも、結局佐枝の持ち歩くポーチの中にはリップクリーム程度しか入れられぬほどに化粧に興味持たぬまま迎えてしまったこの日──七五三以来今までの人生通してみてもたった2度目となる化粧受ける為にと椅子に腰を落ち着けたまま、他者の手に依って頬の上をふわふわと滑る柔らかな慣れない感触に擽ったげな様子で瞳を伏せて思いを馳せるは正式に皆に披露することになる其の相手と自らの父親のこと。閉じた瞼の裏側に2つの顔をそっと並べて、小さな頃から今日この時までの思い出に暫し耽ることにしよう。──小中と通った地元の公立校と変わり、高校から通い始めた少しばかり離れた有名私立校。其の頃から父の代理としてパーティに参加することも増えて、2年次在学中には突然に父の会社 の危機が告げられて、1つのパーティで出会った彼との結婚がいつの間にか決められて─、人生を賭けたゲームが始まった。のんびりと流れていた筈の時間の進み方が突如として変わったのは、─そう、まさにあの時だったのだ。怒涛の如く過ぎ去っていったゲーム期間の3ヶ月。出会いと同様唐突に訪れかけた別れを、──引き留めようとしたのは結局2人の内のどちらだったのか。なかなか言葉になることのない不器用な愛は、其れでも少しずつ少しずつ共に時を共に過ごす内に育まれていった様に思う。激情とはどう考えても程遠い。穏やかなだけの愛ともきっと違う。胸中求めて求めて止まずとも近付き過ぎること出来ず、仕事だ学校だと時がすれ違っても遠ざかり過ぎることも出来ず。日常を共にするのが使用人を除けば父親だけだった佐枝の生活に、強引な形とは言えども全く違った世界を知らしめてくれたのは確かに彼だった。当時は彼よりも短いほどに切り揃えられていたショートカットの暗い焦げ茶の髪は今は毛先全体が肩に触れる程度にまで伸ばされて、メイクと共に弄られた其れ は今、緩く柔らかい曲線を描いて首筋を擽る。せめて彼よりも長くしようと誰に言われるでもなく僅かに伸ばした其の髪は、化粧だ服装だとあまり女の子めいた気の払い方をしなかった佐枝の今のところ外見上唯一とも言える変化だろう。──若しくは、いきなりあれやこれやと変えていくことなど物臭な性格の佐枝にはかなりの難題であるものだからと、髪型程度少しは女性らしく─そう思い始めたことが多少の進歩である捉えてもらえたのならば彼女にとってはせめてもの救いかもしれないが。少なくとも大好きな景色を見た時の如く、大好きな父親と楽しい時間を過ごす時の如く、気の置けない友人とテニスを楽しむ時の如く、其れと同じ柔らかな笑みで彼を想うことが出来る様になったのは確かな内面の変化。腿の上に乗せた細いゴールドのティアラの縁へと指を這わせて別室で己と同じく支度をしているであろう彼を想えば瞼伏せたままの目尻は微かに緩く和らぐ。言葉1つ仕草1つ、出会った時から一般とは些かかけ離れた其れらに意味はどうあれ名前を問うた時点である種の興味を惹かれ ていたのかもしれないことはこれから更に長い時間を家族として過ごしても彼には秘めたままにしよう。偶々代参した其のパーティで出会ったあの日も、レストランで盟約交わしたあの日も、まさか彼とこんな日が来ることになるだなんて全く想像もしなかったけれど、今はこの判断が間違っていたとは思わない。指先を離れて頭の上に飾られたティアラ落とさぬようにゆっくりとした動作で再び色を取り戻した視野に更なる光をと窓の外へ視線投げれば、入り込む心地良い太陽の日差しがやけに彼に似合わないような気がして──薄いピンクのリップを引いた口端を柔く持ち上げた。)